焼津に「寿屋」あり
焼津に「寿屋」という居酒屋がある。焼津市役所から少し歩いた路地にひっそりと佇んでいる。
店構えは古い木造の商店そのもので、大きな暖簾がなければそれとは分からない。ガラスが貼った木の引き戸は、風が吹くとすぐにガタガタ音を立てる。
入って正面に大きな木机が二つ並び、右手に調理カウンター。いや、カウンターという言葉は全く似つかわしくなく、流し台と燗付けの鍋が据えられた小さな炊事場とでも言おうか。
奥には座敷、そして煮物や揚げ物をする厨房が見渡せる。どれも丸見えで、すべての作業は目の前で行われる。
暖房は七輪の火鉢のみ、冷蔵庫はなんと電気ではなく氷式のものである。
そして、これが一番重要で当たり前のことなのだが、これは映画のセットでもなければ古民家風居酒屋でもない。戦前は小売酒屋として、戦後は飲食店として、そして住まいとして、静かに焼津の町にあり続けた生活そのものなのである。
ご主人は頑固に七輪や氷式冷蔵庫を守っているのでもなく、穏やかに昔と同じ営みを続けていらっしゃるだけなのだ。
お酒も、地酒とキリンビール(瓶)のみ。
「焼酎置くとね、やれレモンだ梅干だウーロン茶だって用意するものが多くてね、年寄りだから燗か冷の単純なのがいい。ビールも一種類だけ」と屈託なく笑って仰るご主人。
「昔はね、小さい子がおつかいでその日に父親が飲む分だけのお酒を買いにきてたんだよ。空の四合瓶持ってね、これに一合くださいって具合に」
「焼津じゃ鰹のたたきにニンニクはつけないんだよ、それだけ新鮮で旨いんだって昔から焼津では決めてるみたいでね」
「焼津から見える富士山は一番きれいだと思うよ、この町の人はその富士山見て育ったんだよね」
昔から続いている物事をありのままに受けとめて、静かに営んでいるご主人の姿は潔くもあり、暖かくもあり。あくまで自然体で、優しく客人を迎えてくれる。
メイタカレイの唐揚げとヘソ(鰹の心臓)の味噌煮とスジ肉のおでん(これらは少し奥の厨房で奥様がこしらえてくださった)を熱燗とともにいただいた。刺身は鮪と蛸。
刺身を注文すると、ご主人が木でしつらえた大きな冷蔵庫からホウロウのバットにならんだ切り身を取り出してくれる。冷蔵庫は冷気が逃げないように、重い扉にしっかりと鍵がついており、中で大きな氷塊が仕事をしているのだ。
「蛸の足のココ食べる?」
ココとは、蛸の足の先っちょのぐるぐるって巻いたところである。酢の物ならともかく、普通はお店のお造りでは絶対に出さないところである。
「ココなんだけど、お客様に出すところじゃないと今までずっと思ってたら、とあるお客様にもったいないココが美味しいのにって言われてね」
「へえ~」
「イヤなら捨てちゃうけど、食べる?」
「あ、いただきます」
「俺も長く店やってるけど、そんなことお客様に言われたのはじめてでね、去年あたりからココも出すことにしたの」
「そうなんですか、確かにココをお造りで出すお店はありませんよね」
「そうだよね、ハハハ…」
最後に蛸の足の話でひとしきり盛り上がり、夜は更けていった。
焼津に行くときは必ず立ち寄りたい至宝の居酒屋である。
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