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東海道線の神様のお告げ

何度思い出しても、夢をみていたとしか思えない出来事がある。

今から二ヶ月くらい前、友人たちと酒を飲みいい気分で帰路についたときのことだ。ひどく酔っていたわけではないが、連日の残業で疲れはそれなりに溜まっていたのだと思う。睡眠不足でもあった。「だからこんな不思議な夢をみたのだ」と考えたほうがごく自然なのだが、そうでないことはじぶんが一番分かっている。3月第4週水曜日の東海道線で実際にあった出来事なのだ。

友人たちと改札で別れ、いつものように新橋から東海道線に乗る。セイコーの腕時計の針は23時を指していた。無論空席などなく、一様にくたびれた表情で吊革を握る人々の群れに飲み込まれていった。あと数時間もすれば、再び同じ電車に乗って都内へ向かうであろう人々の群れである。それなのにどうしてみんなこの窮屈な電車に乗るのだろう。溜息がその答だ。

ケータイを何かのお守りみたいに握りしめている人もいれば、うつろな顔で夕刊紙を読んでいる人もいる。品川に着き扉が開くと、さらに大勢の人々が乗り込んできた。疲れが理不尽に加速する。ここは難民のキャンプではないはずだ。

ロングシートの端っこの手すりにつかまり目を閉じた。上方の吊革という吊革は乗客たちの手で埋め尽くされており、目の前の銀色のポールだけがじぶんの身体を支える手段である。先ほどまでのいい気分はとっくに消滅し、突然の津波のように眠気が襲ってきた。一層強く手すりを握りしめるが、意識は遠のくばかりで役に立たない。鉛のように重く疲れているのだ。

車両が大きく揺れると膝から下にすべての震動が吸収され、立っている姿勢が限界に近付いていることが分かる。分かっているだけで、どうすることもできない。

そうしているうち不意に大きな揺れがきて、同時にバランスが崩れ、手すりを握っていた手をついぞ離してしまった。唯一の守り神だったのにあっけなく見放され、スローモーションでその場に身体が沈む。

すると、目の前に座っていた男性が、「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。信じられないぐらい優しい声だった。ミルクがたっぷり入った温かい紅茶みたいに優しい声だった。声の持ち主は、躊躇することなくじぶんの席を譲ってくれた。優しいのは声だけではなかったのだ。

さらに「どこで降りるの?」と尋ねられたので、駅名を答えると、「じゃあそこにつくまで寝ているといいよ、起こすから」と言った。どんな背格好で、どんな服装の人だったのかまったく覚えていない。もちろん顔の記憶もない。なぜなら終始目をつむっていたし、そんな余裕などなかったからである。

ひどい話だが、席を譲ってもらったお礼をちゃんと述べたかどうかも怪しい。言われるがままに腰掛けて、降りかかってきた睡魔に抗うことなく従ったに過ぎない。冷たく光る手すりと違い、僅かだが弾力さえ感じるその場所に身を委ね、迷わず目を閉じた。

いくつかの駅を通過すると、徐々に車両が空いてきた。相変わらず目を閉じ眠っていたのだが、あたりの人が電車を降りていく感覚が不思議に伝わってくるのだ。長年の通勤で身体に染みついた時間と空間の感覚だ。

やがて隣の席が空き、優しい声の持ち主がそこに座った。その様子をはっきりとじぶんの目で見たのではないが、そんな気配がしたのだ。すべてが夢の中の出来事に感じられ、ふわふわしたスポンジに包まれているみたいなじぶんがいた。この時じつは、本当に夢を見ていたのである。

夢の中で、恋人と旅をしていた。

二人は中央線で小淵沢方面に向かっていた。窓から深い緑の山々を見渡すことができ、その向こうには青い空があった。空は高く、日差しは暖かだった。夢の中の恋人は白い麻のシャツを着て、優しく笑っていた。次に停車する駅名がアナウンスされると、恋人は「ついたよ」という表情をして、無言で立ちあがった。

夢から覚めるのと同時に、思わず隣に座っていた男性の手を握りしめてしまった。先ほど席を譲ってくれた優しい声の持ち主の左手である。

寝ぼけていたのか、その手を握ったまま立ちあがって電車を降りようとした。その場面はなぜかはっきりと覚えている。握った左手を通してその男性がほんの少しだけ驚いた様子が伝わってきたが、静かに「一人で帰れるよね」とだけ言われた。その言葉も記憶している。

次の瞬間、静かに手を離すと、何も言わずに電車を降りていた。そして、振り返ったり立ち止まったりすることなく、階段のほうに向かってどんどん歩いていった。そのすぐ横を、電車は通り過ぎていった。

結局のところ、席を譲ってくれた親切な人の顔も覚えていないし、「ありがとうございました」の一言も声に出さなかった。この上ない無礼な態度で振る舞っていたことは認めざるを得ない。けれどこれは勝手な言い分なのだが、その男性がそれを不愉快そうにしていた気が全然しないのだ。むしろ、一瞬だけ握りしめたその左手は温かくてとても懐かしい感じがしたのを覚えている。

この日を境に、恋人が夢の中に現れることはなくなった。今では、奇妙なこの夜の出来事が神様のお告げだったのだと確信している。東海道線の神様のお告げ。

神様はこう言っていた。

「手を静かに離して、振り返らずに歩きなさい」

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

べるさんが待ち望んでいた親切さというか、愛情なのかな?
そしてべるさんが正に手を差し延べたその瞬間が、過去とのお別れだったのかな?

投稿: こんにゃろふぇち | 2009年5月28日 (木) 21時26分

 まるでよくできた向田邦子の短編小説のような、すてきなお話でしたね。
 これから満員電車に乗るときは、そのステキな紳士のように振る舞えるようにします。
 いや、基本的にクルマ通勤なので満員電車には乗りませんけど(^^;)

投稿: 江草乗 | 2009年5月28日 (木) 23時03分

本気でドキドキ読みました。
読後にジワッときました。

ただ、夢を壊すようでまことに申し訳ないのですが、
その優しい声の男性は私です。

投稿: クリリン | 2009年5月29日 (金) 00時56分

読んでいて、なぜか涙が出そうになりました。

投稿: 別の初登場 | 2009年5月29日 (金) 01時02分

こころに じわん とくるお話ですね。

これからきっと良いことがありますね♪

投稿: ひのぴ | 2009年5月29日 (金) 01時38分

こんにゃろふぇち氏

分析どもです。
これからも、縦横無尽に「こんにゃろ」発言していく所存です。

投稿: 丸の内べる | 2009年5月29日 (金) 19時45分

エグザイルセンセイ

ウチのガッコウもクルマ通勤のセンセイがほとんどです。
ガッコウというのはどうやら特殊な職場のようです。

投稿: 丸の内べる | 2009年5月29日 (金) 19時46分

クリリン氏

やはりそーでしたか。
そんな気がしてました。

投稿: 丸の内べる | 2009年5月29日 (金) 19時46分

別の初登場氏(←再登場氏ではダメですか?)

泣いちゃダメです。
ココは笑い飛ばすとこです。
でもありがとう。

投稿: 丸の内べる | 2009年5月29日 (金) 19時47分

ひのぴ氏

いまのところ、コレといって良いことがありません。
神様はサボっているのでしょうか。
とりあえず、ダービー予想はがんばります。

投稿: 丸の内べる | 2009年5月29日 (金) 19時47分

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